2019年12月11日(火)
マヤは夜中と明け方、トイレに起きる。数分前まで静かな寝息を立てていた犬が唐突に目覚め、立ち上がろうと弱った足で布団を蹴る。かさ、かさ、かさ。
その気配に気付いた私は彼を抱き起し、ベランダかリビングに出してやる。
少なくとも10回はくるくると回ってから排泄するのを見届けてから、眠い目をこすりつつ後片付けするのが一連の作業だ。
でも昨夜の空気はどこか違っていた。
深夜に目覚めてマヤは?と暗闇に目を凝らしてみると、枕もとに転がっている茶色い塊。
そういえば寝る直前まで徘徊が激しくて、あちこちにぶつかりながら歩き回っていたな。
私は途中から付き合いきれなくなって、枕元の壁とにらめっこしていたマヤをほっぽって寝てしまったんだっけ。
徘徊しているうちに電池が切れたみたいに眠りに落ちたんだろう。そう思いながら湿り気のある毛皮にそっと触れてみた。
でも、何かがおかしい。
自分の心臓が躍り上がる音が聞こえた気がした。
暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる赤毛の上、おそるおそる手のひらを移動させると奇妙な冷たさ。それに……呼吸していない?
ついにこの日が来てしまった。
心の半分で驚愕を覚えると同時に、もう半分は奇妙なほど静かだった。
こいつ、山みたいに買いだめしたドッグフードを残したまま行っちゃったなあ。
葬儀会社はどうしよう、動物病院に紹介してもらおうか。
マヤ、ずいぶん長く頑張って生きたね、最後まで素晴らしい犬だった!
最後はねえちゃんのそばにいたかったんだね——枕もとで倒れていたことがなんともいえず哀れに思える。
でも、やっとお父さんのとこに行けるんだね。
マヤを溺愛していた父が病室に貼っていた写真。その中でお座りをしていた毛むくじゃらの生きものの、どこか困ったような顔が甦る。
様々な思いが胸を去来したものの、きっと時間にすれば時計の秒針が2センチも移動しない間のことだったろう。
悲しみと諦め、喪失感と納得感がないまぜになった感情に押し流されそうになりながら、大声で妹の名を呼んでいた。
「マミ——っ!マヤが死んでる!」
「えっ?マジかぁ——?!」
衝撃が大きすぎたからだろう、深刻な場面にそぐわないすっとんきょうな驚き方をして飛び起きた妹が傍らにきた。
そして電気をつけてまじまじとマヤを見ると……。
ああ、生きていた。
お腹が静かに上下していた。
マヤは今夜も生き延びてくれた。
全ての生き物に等しく訪れる死。17才に近い老犬に残された時間は泣こうと笑おうとそう長くはない。
世の中には21歳、22歳まで生きてくれる犬もいるようだから、ひょっとするとマヤともあと3,4年は一緒に暮らせるかもしれない。
それでも、別れは必ずやってくる。それが明日ではないなんていったい誰に言い切れるだろう。
すでにマヤは十分生きてくれたと私も妹も考えている。
いつ父母や末妹のもとへ駆けて行ってしまっても、かける言葉は「マヤ、よく頑張ってくれたね、ありがとう」だと決まっている。それでも私はマヤを失う日の到来が怖い。
つらつらと不安を訴える私に友人は「でもね、貴女がどう思おうとも『死ぬ時』はマヤちゃんが自分で決めるんだからね」とちょっと怒ったように言ったものだ。
まったくその通り。彼らは「死」にヴェールをかけようとする人間よりもずっと自然に近いのだから、と友の言葉が腹に落ちたものだが、それでもやはり不安から自由でいるのは難しいことだ。
いつどの瞬間にマヤが旅立とうとも、微笑みで見送る心の準備はできているつもりではあるけれど、すこし前まで生きて動いていた可愛い可愛い「命のふくろ」が抜け殻になった時、己の精神がどんな反応を見せるのか、予測しがたいことがとても怖い。