2019年12月22日(日)
日曜日、朝8時。ひんやり湿った感触を頬に感じてまぶたを開けた。
目の前には鼻を押し付けていた犬の、白内障ですりガラスのように変化した瞳。無表情のままこちらに向けられた眼差しは、私を通り過ぎて背後の中空を探っているかのようだ。
休みだからもうちょっと寝かせて欲しいなあと面倒に思う半面、もう目にすることはないだろうと諦めていた愛らしい動作で起こされた喜びもある。
……というのは今年の春までは、休日に遅くまで寝ていると「そろそろごはんにしませんか」と起こしに来るのがマヤの「ルール」だったから。
マヤは他にも自分なりの「ルール」をたくさん持っていた。
夜、私が布団に入る気配に気付くとどこの部屋にいようがあわてて飛んできて、一本だけジャーキーをもらうこと。
夜中、トイレに入るとトコトコついてきて、用を足すのをじっと見つめる「妖怪厠のぞき」に変身すること。
出勤前には玄関先までお見送りして、口におやつを放り込んでもらうこと。
散歩から帰ってきた時には、廊下の手前でリードを解いてもらって、玄関の前へまっしぐらに駆けてゆくこと。
これと決めたら曲げない頑固な面があるせいで、一度決めた「ルール」はたいてい守られていて、犬が勝手に作った「ルール」に人間が困らされることも度々だった。
でも、夏を過ぎたあたりからだろうか、散歩帰りに廊下でリードを解いても、駆け出すどころかぼんやりした顔で佇むばかり。
そっとお尻を押してやっても3,4歩歩いてまた止まるを繰り返し、ようやく玄関に辿り着く。
寝る前におやつをもらいに来ることも忘れてしまったし、出勤前のお見送りも、帰宅時のお出迎えもいつの間にやらなくなった。
玄関のドアを開けると真っ暗な部屋の中、壁と向かい合ったまま微動だにしないマヤを目にすると、なんとも言い知れないもの寂しい気持ちになる。
そんな中、今朝「きまり」を唐突に思い出したように冷たい鼻を押し当てられて、そもそも「認知症」とはなんなのだろう?という思いがふとよぎった。
そういえば9年と4ヶ月という長い年月をかけて、物言わぬ老木のように変化していった認知症の母に接した時にも同じ思いを抱いたものだ。
ひょっとすると母は私たちには想像もつかないやり方で世界を「認知」しているのかもしれない、と。
マヤ。耳は聞こえず目もほとんど見えず、頼りの綱だった鼻すら使い物にならなくなりつつある。
呆けた顔をして小さな円を描いてくるくる回り、疲れてその場で眠り込む。あれもこれも、自分で決めた楽しい「ルール」はみんな忘れてしまったボケた犬。
でも、まるで空っぽの袋になってしまったように見えるマヤは、私たちの知らないやり方で外に向かって広く感覚を開いているのかもしれない。
胸に抱きあげたマヤが、窓からの風景に見えない目を見張ってふうぅっと深呼吸、風の匂いを嗅いだ時、この小さな生き物の中には17年間の記憶がしっかり詰まっているのだろうと思う。
風の香り、砂浜の感触、池の水の冷たさ、可愛がってくれた父母と妹のこと、一緒に遊んだ友達犬、自分が気に入っていた「ルール」のこと。
きっと覚えている。マヤはいろんなことを覚えている。