2019年9月3日(火)

夕暮れ、銀色の針みたいな国際線の軌跡

目の手術をする前後から夢の感触が急激にリアルになった。
夢を見ている間は「私は眠っているのだ」と分かりつつ己を観察し、こちらとは微妙に違う状況を全身で味わっている。
匂い、感触、温度、音。全てが肉体をもって直に体験しているようで、目覚めたときにどちらが夢でどちらが現実かめまいを覚えることも少なくはない。

夢の世界で懐かしい人たちに会えることもある。
中でも目の手術の前日に病院のベッドで見た、母、そして分かれた前夫の夢は五感に貼り付いたままだ。

前夫の夢。
入院している病院から外に出てしまった私は帰り道が分からなくなっている。いや、帰るべき建物は目の前に見えているのに、そこへたどり着く道が閉ざされているのだ。


どれも同じに見えるグレーの建物の間を縫って歩き回りながら、隣りに渡る階段やドアを探すものの、水族館の魚のようにぐるぐる回っているだけ。
「これは夢だが、手術前のこのタイミングで帰れないと、現実世界でもまずいことになる」と体の奥底で分かっているからだんだんあせってきた。

その時目に飛び込んできた階段。踊り場で前夫が満面に笑みを浮かべて立っている。

ああ、ここから出ればいいんだ。Yが私を助けに来てくれたんだ!
嬉しくて駈け寄ろうとした時、体の左側にコールタールのようなベタベタした不愉快なものが這い上がってきて絡み付こうとした。

Sだ!直ちにそう思った。
「S」とは私と前夫が別れる原因を作った「魔」のような男なのだが、気持ちの悪いコールタールのことを直感でSだと思うなんて、えらい酷い話だなあ!と可笑しくなる一方、黒いものはどんどん増えてゆき私を覆い尽くそうとする。

これはSだけではない。Sの怨念が空気中を漂っていた邪悪なものを引き寄せて、どんどん大きくなっているのだ、となんとなく思った。

その時とっさに口をついて出た。
「悪霊よ、去れ!」

ありったけの気力を体にみなぎらせて、腹の底から何度も叫んだ。
「悪霊よ、去れ!悪霊よ、去れ!」
きっとベッドの上の私は大きな寝言を言っていたことだろう。
全てのエネルギーを注入するようなシャウトを繰り返すと、黒いものはすっと消え、あとには私と前夫が残された。

「そっちの世界はどう?」
何事もなかったかのように前夫に歩み寄ると、まるで先月分かれたばかりのように死後の世界の様子を尋ねる私。「うーん、色々ややこしくてなあ」と苦笑いを浮かべるY。
丸顔に浮かぶ笑顔はたまらなく懐かしくて、心の底から愛がわき上がり溢れる思いだった。

江戸川乱歩に「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」というの有名な台詞があるが、そうあってくれればどんなにいいか!と天を仰ぐこともしばしばである。