2019年1月25日(土)

インギー
今年のお誕生日はヘボピーねえちゃんのひざの上。あこがれの焼き豚とバウムクーヘンを食べさせてもらったのでした。
イングリッシュコッカースパニエル
去年のお誕生日には自分で椅子に座れたんだけどなあ。

♪16才のわんちゃん 16才のわんちゃん
とても とってーも すばらしい(わんこ!)
♪16才のわんちゃん 16才のわんちゃん
とても とってーも すばらしい♪ ♪

よぼよぼの犬を囲んで姉妹が声を揃えて歌うオリジナルソングの、「16才」が今日「17才」になった。
17才——ヒト年齢に換算すると90才にもなるそうだから立派なものだ。

16年半前に我が家にやってきた、生後半年にしては体が小さく毛吹きの悪い、正直言ってみすぼらしい仔犬が年齢を重ねた末に、17回目のお誕生会ができるなんて、予想もしなかった。
「マヤちゃんすごいよ!17才になったんだよ!」と過去の自分に教えてやりたい気分である。

インギーの子犬
ちいさなマヤちゃん。今は亡き母とお散歩。

一般的に大型犬種よりも小型犬種の方が平均寿命が長いとされる。そして私がこれまでに生活を共にした犬たちは大型ハウンドのサルーキだったせいもあって、みんな10才前後であっさり大空に駆けて行った。だからここまで老いた姿を見せてくれるのはマヤが初めてだ。

老犬介護はけして幸せなことばかりではない。ぐったりする場面の方がはるかに多い。
長くアルツハイマーを患った母の介護を経て、認知症がどういうものかを知っているはずの私でも、人間並み、時には対・人間以上の労力を要求されるワンワン介護に戸惑ったりあせったり、時にはヒステリーを起こしては自己嫌悪に陥ったりの連続である。

「生きがいはごはんと散歩です!」な犬族なら当たり前にできるはずだと思っていたことですら、年を取るとおぼつかなくなることを初めて知った。

飲み水を置いている場所も分からなくなったと見えて、バケツのそばに連れて行くと、「やったあ!水発見!」と言わんばかりの勢いで、のどを鳴らして水を飲む。
眺めているといつまでもびしゃびしゃと水音を立てているから、飲みすぎじゃない?またおもらししちゃうよ?と心配になるくらいだ。

ごはんもうまく頬張れなくなったから、おさじを使って一口一口食べさせてやる。
口の端からよだれ混じりのごはんをぼたぼたと落とすマヤの姿は、お世辞にも清潔とは言えるものではない。ヒトもイヌも老いるとみっともなくなるものなのだと、糸を引くよだれが語っている。

一晩中徘徊しては壁に突進、後頭部から転倒していた母と同じように、マヤも肩で息をしながらぐるぐる回り、ドアにぶつかっては派手な音を立てている。

回っていない時には眠っている。生きているのか不安を覚えてお腹の動きに目を凝らすほど、それはそれは深い眠りについている。

老いるとは昨日できたことが今日はできなくなることなのだ。
「老い」がゆるやかな変化として現れる人間よりも早く、びゅんびゅん飛んでいく時間の中で、犬たちはあっという間に老いの手につかまってしまう。その変化はそこはかとなく寂しく辛く、また愛しくもある。

野生ならとうの昔に命を落としているはずの17才の生き物は、今日もよだれを垂らしながらご飯を飲み込み、大きな水音を立てて一心不乱に水を飲む。

痩せて背骨が浮き出た小さな犬が、最後の日という一点に向かって、ただ無心にひたすら歩んでいる。
その姿を見ると、ただ生き続けてそこにあることの尊さが胸に迫って、私は思わず息をのむ。

こうしてマヤを眺めていられる時間はあとどれくらい残されているのだろう。
愛犬を失うのが怖いと訴える私に友人は、でもね、「死ぬ時」はマヤちゃんが自分で決めることだからね、と言い、その言葉に深く納得してはいるのだが。

「死」の概念に縁のないマヤは、自然の指し示す道をひたすらとことこ歩んでいる。
私にできることはただ、最後の日まで心を込めて世話をすることだけだ。♪18才のわんちゃん 18才のわんちゃん とても とってーも すばらしい ♪と歌える日の来ることを願いながら。

イングリッシュコッカースパニエル
ぼく、もうちょっとがんばろうとおもっているよ。