2020年3月28日(土)

新開地のお店
紳士衣料と作業服。明度と彩度をおさえた素敵なお色の品々が、競艇で勝ったお客様のお越しをお待ちしております。
新開地のおっちゃん
場外舟券場の向かいでワイワイ楽しそうにやってるおっちゃんたち。その帽子、紳士衣料と作業服のふくやまで買ったのかしらん?

テレビをつけてもネットを見ても、目に飛び込んでくるのは新型コロナウイルス感染症のニュースばかりなり。

手だけは肌がガサガサになるくらい洗ってはいるものの、自分的には極端に気にしているつもりはなかった。
だがこのところどうにも調子が悪い。足は四六時中ズキズキ痛むし目もかすむ。寝ている最中に突然下腹部の差し込みや片腕の痺れに襲われて、すわ盲腸炎か?脳梗塞か?とドキドキしたことも一度や二度ではない。

これってひょっとしてコロナ疲れ?とはたと気付いて、ネット情報をシャットダウンしてみることに。
だが……。数時間ともたなかった。私も一応現代人、「情報を逃す恐怖」には耐えられないらしい。

せめてTwitterにもヤフーニュースにもアクセスするのは1日3回までと自戒して、あとは株式相場と為替相場情報を通してコロナと戦う世界を見つめることにした。そしたらさらに調子が悪くなった。
ほんとにどうなっちゃうの?ドル円相場と石油価格!!!(そこか)

新開地のお店
新開地本通りに突如として現れる高貴な色をまといしスナック、その名も「むらさき」。カラオケで歌うのは「長崎の雨はむらさき」と「パープル・レイン」で決まりだね!
新開地の木賃宿
知る人ぞ知る簡易宿泊所、三和ホテル。入室の際には鍵ではなく、フロントで手渡されたハサミで扉の結束バンドを切って入るシステムだそうから、なかなかのものだ。

三和ホテルの記事が地元新聞に載っていたので、よろしければこちらもご覧くださいませ

さて、タイトルとは関係ない話になってしまった。
「勘違い」というのは別に大したことではないのだが、前回の日記(この更新ペースだとすでに「ほぼ月記」だが)で「2006年のマヤの写真が皆無なのは、母の介護で犬を撮る余裕すら皆無だったためだろう」と記した件、あれはぜんぜん間違いだったという話なのである。

2006年のスケジュール帳を開いてみると、この年はまだ母とは意思の疎通ができており、あちこちに連れて行っていたことが分かる。

マヤはちょくちょく家族に噛みつきつつもヒステリーにまでは至っておらず、獣医さんから「太り過ぎ。要ダイエット」と指摘されていた。
そして私はといえば、京都までヒエログリフを習いに行ったり、ゲイ雑誌「G-men」のイベントに出かけたり「皇国の守護者」に萌えたりと楽しくやっていたようだ。

それでも2006年前半のわりかし明るい雰囲気が、「母、徘徊の兆候」と記された夏を境に、年後半に向けて徐々に薄暗く変化して、「母、映画すら見られなくなって悲しい」「母、もう言葉出ない」「傘のさし方も分からない」「母にイライラ爆発」等の書き付けが増えて、我がことながら胸が苦しくなる。

同時にこの頃にはまだ奇跡を信じたかったのだろう。現代医学では治療方法のないアルツハイマーにも効くかもしれないと聞き、トンデモオカルト似非治療を受けさせるため、母を伴って遠く大阪まで通っていた……そういう痛々しい記憶もよみがえった。

そうだった、なんとか母をこちらの世界に繋ぎとめようと、もう必死だった。
エジブト学の講演を聞きに上京したりゲイイベントに参加したりと、自分は自分でエンジョイしていたように思っていたが、実は現実逃避したかっただけなのかもしれない。

心は常にざわついて、現実から目を逸らさないと潰れそうだった2006年。それでも愛犬の写真を一枚も撮れないような状況ではなかったようだ。
そう、介護疲れでファミリーが戦争に突入した2008年をクライマックスとすると、2006年なんてベートーベン「運命」の♫ジャジャジャジャーン♩のパートにすらまだ突入していなかったんだ……。

母の徘徊と錯乱ぶりが最高潮に達した年のスケジュール帳を開いてみれば、「頭痛、歯痛ますます酷い」「不正出血 大量」「だるくてたまらず12時間寝る」「嫌な夢ばかりでうなされる」等々、ネガティブ記述のオンパレードで書いた本人がびっくり。「それ、ぜんぶストレスが原因やで?」と過去に戻ってそっと自分の肩を抱きたい気分である。

それと同時に改めて振り返ると、家族みんながもう少し明るい気持ちで過ごせるベターな介護方法があったのでは?という思いも湧き上がってきて胸が痛む。
全てはもう終わってしまったことだとは思いつつ、当時の自分はベストを尽くしたつもりでも、実はそうではなかったことに気が付いた。我がことしか考えていなかった。

そんな中、マヤは人間の事情なんてよく分からない犬族なりに、みんなと一緒になってヒステリーを起こしたり(そして噛みつく)、カレーを盗み食いして入院(治療費15万円!)したり、父の癒しになったりと、家族の一員としてしっかり生きていた記録が残っていて微笑ましい。

繰り返し本気噛みされて、いつも手に包帯を巻きつつも「癒しのマーヤ!」と口癖のように言っていた父。その気持ちが今は痛いほど良く分かる。
うまく言えないが、マヤは爆発しそうな我が家の空気を時々入れ替えてくれる存在だったようだ。

父も母も妹も世を去った後、三人の分まで長生きしてくれているコッカースパニエル。ヨタヨタのヨボヨボになりながら頑張っている。
「ぼくまでいなくなったら、おねえちゃん、かなしいでしょ?」と犬なりに思ってくれているのだろうか。

それにしてもなぜ彼の2006年の写真はゼロなのだろう。理由は謎のままである。

新開地の芝居小屋
母が元気だった頃、連れてきてやろうと思いながら果たせないままでいた大衆演劇。母亡き今、ふらっと一人で行ってみようと思わないでもないが、はまりまくってお札のレイをかけることになりそうな予感もあり、怖気付いている
イングリッシュコッカー
認知症由来の徘徊が止まらない時、段ボール箱に寝かせて「捨て犬ごっこ」をすると静かになることが多いマヤ。足元に箱を置いてPC作業中、ふと下を見るとかわいい子犬と目が合った。キュンときた。