2020年7月9日(木)

(「愛しのマーヤ」は父の口癖だった。激怒症候群で若い頃は猛烈な噛み犬だったマヤに父はいつも噛まれていた。
それでも血の滲んだ包帯を巻いた手で犬の頭を撫でながら「愛しのマーヤ!」と呼びかけていた父の声が今なお鮮明に蘇る。)

マヤ 2020年7月9日夜

昨日私は幸せだった。何度思い出し笑いをしただろう。笑う度に温かい泡みたいな感情が胸の奥から浮き上がってきて、もっと幸せになった。

この幸福感をもたらしたのはマヤだった。
昨夜の朝5時、突然パンティングを始めた犬をいつものように抱き起こし(便意、尿意をもよおすとハァハァとパンティングするのはマヤの癖なのだ)ペットシーツを敷き詰めたトイレの場所に連れて行った。そうしてひとしきりぐるぐる回った末にちっちするのを、眠い目をこすりながら見守るのは私たちの日課なのだ。

だが、昨夜のちっちは一味違った。
慎重にぐるぐる回って腰の落とし所を探っているマヤを「眠いのにさっさとしてくれないかな」とちょっと苛立ちながら眺めていると……奇跡が起こった。
なんと、マヤが片足を上げて「男ちっち」をしたではないか!

最後に男ちっちを見たのはいつだったろう。半年前?いや、今年に入ってからは見ていないかもしれない。
急速に足腰の弱りつつあるマヤは、「女ちっち」ですら足元がおぼつかず、トイレ排尿もいつまでできるやら……と心配になるくらいなのに、男ちっち!それも足が地面から5センチほど離れた、それは見事な男ちっち!

予想外のできごとに泡を食ってスマホに飛びつき、カメラに収めようとした。
だが、スマホを立ち上げてパスワードを入力する間にちっち終了。ああ無情……。パスワードなんぞ設定していた己を呪った。

奇跡の男ちっちの記録を取ることは叶わなかった。だが、予想だにしなかった見事な足上げはこの両眼にしかと焼き付けた。
17歳5ヶ月にもなってまだ主人を喜ばせてくれるなんて、なんて可愛い犬だろう!もう、愛しくて愛しくて、愛が溢れて胸がはちきれそうだった。

こちらは今年の4月撮影の女ちっち。
排尿時、おしっぽが「ピーン」となるのがもう可愛くてたまらない。マヤがおしっこする時はヘボピーと声を合わせて「ピーン!!」と合いの手を入れてやるのだよ。
神妙な顔で女ちっち。
マヤちっち
こちらは去年?の男ちっち。昨夜のちっちはこのレベルで足が上がっていたから度肝を抜かれた。

そして昨日夜。私は1週間に一度の自宅帰宅日だったため、マヤの世話はヘボピーに任せていた。
自宅でぼーっとアニメ版ポケモンを見ていると、ピロロローンとLINEの着信音。開いてみれば、ヘボピーから。なになに?

「なんと……」
「オトコチッチしてん」
「足上げの高さは低かったけど」

なんと!昨夜に続きヘボピーにも男ちっちを披露してくれたようだ。ヘボピーに見せる写真を撮れなかったことを残念がっていた私の気持ち、マヤに伝わったのだろうか。

「スーパーじぃじ」
「じぃじ!」「じぃじ!」
「すごい!堅マメボリボリ食っとう」(堅マメードライフードのこと)
「スーパーじぃじやな」「すばらしいじぃじ」

大興奮のミキ姉妹。先々週はマヤの様子を見るために会社を早退するくらい調子が悪かったのに、ここ2、3日は元気いっぱいでびっくりだ。
ヘボピーとLINEでやりとりしながら、ひょっとするとこの犬、20歳まで生きてくれるかも……と思ったりもした。

だが、事態は急転直下。

本日木曜日。朝ヘボピーが世話をした時には、ごはんモリモリ、ぐるぐる活動もいつもどおりで元気いっぱいのスーパーじぃじだったのに。
夜、私が帰宅すると寝たままだった。いつもならぐるぐる回ったり、ぼーっと突っ立ったりしていて、私に気づくと「やっと帰ってきたな」とばかりに遠吠えを始めるのに、今日はぐったり横たわったまま。

眠いだけなのかな?と抱っこすると体がぐんにゃりしている。そっと移動させるとその場でウンチを漏らした。これはおかしい。胸がドキドキした。

あいにく今日は動物病院は休みだ。それでも留守電にメッセージを入れると、すぐに先生から電話があった。
何ができるか、何をすべきかを相談した結果、今から入院させて明日にかけて検査する方法は選ばず、明日一番で病院に連れて行くことにした。

そして現在深夜2時半。マヤは横たわったまま静かに呼吸している。でも弱い呼吸。生気がない。
3時間前に手のひらに乗せたドライフードを差し出すとポリポリ食べたし、水もガブガブ。サーモンのお刺身も美味しそうに食べた。でも起き上がりはしない。体に力がない。

明日、病院が開くまでもつだろうか。そろそろお別れなのかな。17年5ヶ月。犬としてはもう長く生きた。もう十分だよと言いたいけれど、離れたくない。混乱している。覚悟と恐怖が混ざり合っている。

それでも出来る限り心を波立たせないようにしながら、横たわった犬の耳元にささやきかけた。
マヤ、ねえちゃんと約束しよう。死ぬときはねえちゃんのそばで死ぬんだよ。
もしそばにねえちゃんがいないなら、ワン!ワン!と吠えて呼ぶんだよ。

マヤ、お前はそろそろお父さんのところへ行くつもりなの?人間は自然が決めたことに手出しはできなくて、お前はまさに自然の一部だけれど、 ただ一つ、最後にねえちゃんのわがままを聞いて、お前の旅立ちをそばで見とらせておくれ。マヤ、マヤ、愛しのマーヤ。

旅立ちは明日かもしれないし、寝たきりのままあと数年頑張ってくれるのかもしれない。今はただ、どうぞマヤを安らかであらせてください!と神さまに祈っている。