2021年2月8日(月)
ハロー・グッバイ。マヤ17年7ヶ月の軌跡。
生後半年から一年ごと、旅立つ2週間前、そして最後の一枚は「また帰っておいで!」と祈りを込めて我が家に来た日の写真を。
ありがとうマヤ、楽しかったよ!いつかまた必ず会いましょう。
ご無沙汰しております。
いつアクセスしても9月21日の記事を最後に更新がなくて、「“NEW POST”じゃねーよ!(怒)」とお思いの方も多かったのでは。管理人本人もトップページを見る度に「ぜんぜんNEWじゃねーよ!」と己に突っ込んでおりました。
さて、マヤが去ってから数えること4ヶ月と19日。
その間何をしていたかといえば、家に引きこもっていたわけでも傷心のあまり15キロ痩せたわけでもなく、牧場でポニーと戯れたり、洞川温泉を目指して迷子になったり、マッスルマニアの聖地・ゴールドジムに再入会したりとそれなりにアクティブな日常を送っていました。
かといって「生きるって素晴らしい!」と青空を背景にジャンプするほど元気でもなくて、定期的に濁流となって押し寄せる「マヤなぜ死んだ〜!」という嘆きと「17才7ヶ月まで頑張ってくれた犬になに言うてんねん」という自戒の綱引きで、実のところは疲れ気味。
マヤがいない現実から目を逸らしたくて己を常に忙しい状態に追い込んでいる感じもなきにしもあらずです。
それでも今日みたいに気分がいい日には、「マヤという犬と生きられた」満足感が哀しみを上回り、傍にマヤが座している感覚を覚えます。もちろん幽霊として見えるという意味ではありませんが。
目覚めて「おはよう」、布団の中で「おやすみ」と愛犬に呼びかけるこの感じ、『智恵子抄』で高村光太郎が亡き妻へ語りかけた、『亡き人に』近いのかもしれません。
あなたはまだゐる其処にゐる
あなたは万物となって私に満ちる
私はあなたの愛に値しないと思ふけれども
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ (『智恵子抄』より抜粋)
マヤは17年7ヶ月の犬生を閉じ、小さな茶色の身体のほとんどはすでに元素に還りました。
しかし肉体は失われたけれど、いまだこの世界に残っているマヤもいる。
巧く言語化できないのがもどかしいのですが、もし「愛」や「心」に重さがあるのなら、愛し愛された犬の一部を取り込んだ私の心はマヤの分だけ重くなっていて、そんな心のスペースの変化を「マヤはそばにいる」と捉えているのかもしれない、と思ったりもします。
そう言えば彼を見送ってからしばらくして「映画に行くつもりだったんだけどなんか元気が出ないわ、やめとこうかなぁ」と送ったLINEに妹ヘボピーはこんな返信をくれました。
やっぱりさ、マヤで泣くなぁ
わたしは、そこら中にマヤを見出すからマヤは天国に行ってんねん
海神社の上で、大っきくなってるマヤとか、
ちっちゃくなって、トコトコ歩いてるマヤとか、
ありがとう、しかないなぁ
そして「妹からこんなLINEが送られて来た」とのツイートをご覧になったあるフォロワーさんも、「私も亡き愛犬が風の中や波しぶきの中に存在するのを感じます」と知らせてくださいました。(※)
愛するものが死して肉体から解き放たれ、もっと大きな何かになって自分を取り巻いている。
この感覚は意外にたくさんの人が抱いているものなのかもしれません。
(※)とても美しい表現でしたので、ぜひともご紹介したくTwitter社に過去ツイートのアーカイブを送ってもらったのですが(そういうサービスあるのですよ)、デジタル原始人にはデータの取り出し方法が分からなくて右往左往中。
あらら、もうこんな時間!今日もそろそろ仕事です。
窓からは燦々と陽光が差し込み、遠くに見える山々の緑の色彩は少しづつ明るくなってきました。春はもうそこまで来ているようです。
こんな気持ちのいい日には「早く外に行きましょう!」とわくわくと気力を溢れさせたマヤがじっと私を見つめている感覚を覚えるのです
さあ、マヤ!散歩に行こう。