2021年6月11日(金)
マヤが13才のおじいちゃんわんちゃんだった頃。でもまだまだしっかりとした足取りで歩いていた頃。
愛する犬との別れはどこかリアリティーに欠けて、まだずっと先にある世界だった頃の思い出です。
これを書いてからさらに4年半も生きてくれたなんて、振り返っては「頑張ってくれたものだなあ」と胸が熱くなるのです。
<以下、旧サイト2016年1月6日記述分です>
地方都市にある大方の元・新興住宅地の例に漏れず、我が家のまわりでも住民の高齢化が猛スピードで進行中である。
40年前から見知ったお店の人たちも、月日の経過と共に白髪になり腰は曲がってくる。
やがておろしたままのシャッターに「高齢のため廃業します。長年ありがとうございました」と張り紙がされていたり、店舗兼住宅の前にたむろする喪服の人たちを見て、ああ、あのおじさん、亡くなったんだと気付いたり……と、慣れ親しんだ日常の風景が少しづつ変容するのは寂しい限りだ。
そんな人間の高齢化に歩調を合わせるわけでもないだろうが、近所を散歩している犬たちにもいい年をしたのが随分と多い。
13才になるマヤが年の割りには若々しいのが密かな自慢なせいで、私はつい人の犬の年を尋ねてしまう。
相手の愛犬がまだ若ければ、「うちはもう13才のおじいちゃんなんですよ」と得々として語る。
「えーっ!歩き方がしっかりしてるからそうは見えない!」「毛がつやつやして若いですねえ!」と例外なく驚いてもらえるのがちょっと嬉しいのだ。
だが実際には、「可愛いですねえ、いくつですか?」と相手の犬の年を尋ねると、10才、11才、時には15才や16才なんて答えが返ってくる確率の方が高い。
そうなるとお互いに、病院代が高くついて大変だとか、足元がおぼつかないから抱っこすると人間が腰をいわしそうだとかひとしきり愚痴ったあとは、「がんばって長生きして欲しいですねえ」と会釈を交わして別れることになって、まあ、それはそれで心がほのかに温かくなっていい感じだ。
向かいのマンションのお爺さんが連れている、ウエスティーのフクちゃんは9才。
丘の上のマンションのご夫婦の、ジャックラッセルのメリーさんは12才。
散歩で時々すれ違うおじさんのコーギーは13才で、あそこの家の独り暮らしのお爺さんのポメラニアンのマコちゃんは11才。
今日ひさしぶりに会った白い雑種の女の子に至ってはこのあたりで一番長生きで、いくつでしたっけ?と尋ねると、無事に16回目のお正月を迎えられたんですよと、飼い主の初老の女性がいとおしそうに微笑んだ。
老犬の飼い主と話していると、この「微笑み」に、何かしら共通する印象を受ける。
年齢にかかわりなく犬飼いなら誰でも自分の犬を愛しく思うのは当然だが、老犬に向ける飼い主のまなざしは、若犬に対するそれに輪をかけて優しく、同時に一抹の寂しさを含んでいるように感じてしまう。
人生における10年あるいはそれ以上の年月を共に暮らした、もの言わぬ小さな生き物への愛情、そして確実にやってくるそう遠くない別れに対する覚悟のようなもの。
相手が人ではないからこそ、人は飾らない愛情を注ぎ、短い一生を通して生まれて死んでゆくことの重みを、素直な感慨をもって受け取れるのではないだろうか。
「それではまた」と老犬の歩調に合わせ、ゆっくりと歩き去る人と犬の後姿に、私はいつも何かしら尊いものを見る。
人と犬という形の違う容器から流れ出したたましいが、ゆるやかに溶け合っているように感じられて、胸がしめつけられる思いがするのだ。