2021年6月13日(日)

あの白い老犬のように、遅かれ早かれマヤにも必ず最期の時は訪れる。自分は愛するものを失う巨大な悲しみとどういう形で向かい合うことになるのだろう。
そんなことを考えたある寒い日の思い出です。

アトラ

<以下、旧サイト2016年1月6日記述分です>

老犬といえば印象深い犬がいた。マヤの散歩コースにある公園の裏にある家で飼われていた、サモエドに似た白い大きな犬。名前はアトラといった。

私が初めて目にした時には、アトラはすでに老境にさしかかっていた。
その当時はまだかろうじて走ることができて、飼い主の女性が軽く投げるボールを、びっこをひきひき追いかける姿が見られたものだ。

でも、月日が経つにつれてアトラの足元はどんどんおぼつかなくなり、やがてひきずる足を保護するために、空色のくつしたをはかせてもらうようになった。

そして、始めはマヤを見ると喜んで挨拶していたものが、目も耳も悪くなったせいだろう、だんだん反応が少なくなって、やがてすぐそばまで近づいて初めてマヤだと気づいて弱々しく尻尾を振るまでになってしまった。

道で見かけるたびに老いてゆくアトラ。もうボールも追いかけないし、足を引きずるせいで空色のくつしたは土で汚れて真っ黒だ。

飼い主の女性は無口な人だったから、言葉を交わすことはほとんどなかったけれど、年を尋ねたら「14才なんです」という答えがかえってきた。

大型犬で14才はかなりの高齢、空色のくつしたをはいて散歩する姿をあとどれだけの間見られるだろうと私は思った。

それからさらに数ヶ月が経ち、アトラの姿は公園の中でしか見かけられなくなった。
もうよちよちとしか歩けないアトラは立っているだけで疲れるのだろう、すぐにお座りしてしまう。

晩秋の公園の片隅で、お座りしている白いむく犬と、犬の肩を抱く飼い主。静かに並んで座る二人の姿を、私は忘れることはないだろう。

その数週間後。マヤを連れて公園に行くと、いつもの女性とたぶん旦那さんだろう、中年の男性がアトラを抱いていた。

もう足腰の立たない犬に草の匂いをかがせてやろうとしたのか、二人はアトラを抱き上げては場所を変えて草の上におろし、しばらくたつとまた抱き上げて……を繰り返していた。

きっと二人とも犬の命がそう長くないことは分かっている。ものすごい勢いで近づいてくる別れの瞬間を見据えながらも、ありったけの愛を注ぐ姿は切なく胸を打った。


そして新たな年。
肌が切れそうな寒空の下、いつもの公園にマヤと散歩に行くと、見知らぬ老人が声をかけてきた。
「可愛い犬やなあ。いくつ?」

12才ですと答えると、老人は言った。
「うちはあの家なんやけど、うちのは12月25日に死んでもてなあ」

アトラのことだ!
足が立たなくなってから間をおかずして、アトラは天へと駆け上ってしまったんだ! 
冷たい朝の空気の中、無言のまま犬を抱っこして歩いていた夫婦の姿が脳裏によみがえった。

思い出しているうちに感極まったのだろう、「15年も飼っとったから、いなくなるとさびしゅうてさびしゅうて」と老人は涙をうかべた。そしてマヤの頭をなでると「お前は長生きしぃな」と言って歩いていった。

ふかふかの被毛をいつもまっ白に手入れしてもらっていたアトラ。
引きずる足に空色のくつしたをはかせてもらっていたアトラ。
きっと貰われてきた頃は白いマリみたいにころころ可愛くて、家の人たちは小さなアトラを見てどんなに笑ったことだろう。

15年という年月を経て、ひとつの家族の歴史に一匹の犬もくっきりとした足跡を残したであろうことは、部外者の私にも容易に想像ができる。

そしてあの晩秋、静かに並んで座っていた老犬と人間の背中を思い起こして、言葉を介さない愛の美しさに思いを馳せる。