2021年9月20日(月)
はじめに感じたのはぬくもりでした。
あたたかくてやわらかくていいにおいのするところ。
生まれたばかりのまやちゃんは、おかあさんのおなかにしがみついて、うっくんうっくんとおちちを飲んでいます。
起きてねむっておちちを飲んで、またねむって起きておちちを飲んで。
まやちゃんはぐんぐんと大きくなります。
ある日のこと。
まぶたを開くといつも目の前にかかっていたうすぐもりが消えて、やさしい顔をした茶色の大きなものが見えました。おかあさんです。
おかあさんはまやちゃんのほっぺたをぺろりとなめました。
するとあまいにおいがまやちゃんの鼻いっぱいに広がって、とてもしあわせな気持ちになるのでした。
男のこが三びき、女のこが一ぴき。
まやちゃんは四ひききょうだいでした。
おしゃまな妹と大きな体のおにいちゃん、泣き虫の弟、そしてまやちゃんです。
起きてねむっておちちを飲んで、すもうをとってまだねむって。
ぼんやりとまくがかかったようだったひとみはやがてきらきらとかがやいて、鼻だってずいぶんたくさんのにおいがわかるようになりました。
おかあさんのにおい、きょうだいのにおい、足もとにあるふかふかしたもののにおい。
それから時々頭の上を通り過ぎてゆく、わくわくするような風のにおい。
四本の足だってしっかりして、もう転ばなくなったのがうれしくて、まやちゃんはもっとたくさんおどったり、走ったりしたくなるのでした。
でも、まやちゃんたちがおかあさんのおちちの代わりにとてもいいにおいがする、でも口にするとあまりおいしくないものを食べるようになってしばらくたったある日のこと。
これまでに何度か見たことのある男のひとがまやちゃんたちのおうちをのぞきこみました。
「あっ!おじさんだ!おじさんだ!」
ときどき抱き上げてせなかをかいてくれるおじさんに、子犬たちはわれさきにとかけよりました。
おじさんはにこにこしながら四ひきをじゅんばんに抱き上げました。
でも、いつもとちがったのは、子犬たちがもどるのはお母さんのとなりではなく、ちいさくてかたいかごの中だったことでした。
「おじさん!おじさん!」
なにも知らない子犬たちは短いしっぽをぴこぴことふりながら、かごのまどにしがみついておじさんの顔をなめようとしました。
でも、そのときふとまやちゃんがふり向くと、おかあさんはだまったまま目になみだをためてじっと子犬たちを見つめていたのです。
風のにおいとも毛布のにおいとも、もちろんおかあさんのにおいともちがう、なんだかいやなにおいに鼻をくすぐられて、まやちゃんは何度もくしゃみをして飛び起きました。
かごの外をのぞいてみると、目にとびこんできたのは初めて見るけしき。
聞いたことがないくらいたくさんの犬の鳴き声もひびいてきます。
うぉん!うぉん!
わん!わん!
きゃん!きゃん!
そのほとんどは悲しんでいたりこわがっていたりする声だったので、まやちゃんはおもわずふるえあがりました。
ごとん。おじさんは床の上に置いたかごの中から子犬たちを出して、たくさん並んだガラスのケースの中に入れてゆきます。
おにいちゃんと妹、弟とまやちゃんの二ひきづつです。
そしてそれはまやちゃんがおにいちゃんと妹の顔を見た最後のことになったのです。
これまでのおうちとはちがって、あたらしいおうちは目の前のけしきがよく見えて、たくさんの人が来るのが分かります。
でも、どの人もまやちゃんたちをちょっとながめただけで、すぐにほかの犬をのぞきに行ってしまうのでした。
「わーっ!かわいい!」「だっこしてみますか?」「きめた!この子にします」
外からは楽しそうな声がたくさん聞こえてきて、でもまやちゃんを気にかけてくれる人はだれもいません。
たまにのぞきこんでくる人がいたとしても、むっつりとした子犬の様子を目にすると、首をかしげてどこかへ行ってしまうのです。
起きてねむってごはんを食べて、またねむって起きてごはんを食べて。
そうするうちにまやちゃんと弟はぐんぐん大きくなって、それにつれてますます二匹のおうちをのぞきこむ人は少なくなってゆき、おじさんがしかめつらをすることもふえてゆきました。
ぐちゃぐちゃであまりおいしくないごはんを食べながら、まやちゃんはついぼうっとしてしまいます。
そんな時にかぎってだれかがおうちをのぞきこんでは、首をふりながら別の犬を見に行ってしまうのです。
「ままにあいたいよぅ」弟はすんすん鼻をならして泣きました。
「なんだい!弱虫だなぁ」とまやちゃんはおこった顔をしてみせました。
でも、ガラスのおうちはおかあさんのおなかほどには落ち着けなくて、ほんとうのところまやちゃんだって泣きたかったのです。
そんなある日、すもうをとっている二ひきを見つめていた人がこちらを指さして、おじさんは弟だけ外に出して……。
しばらくして帰ってきた弟は声をはずませていいました。
「ぼく、あたらしいおうちにいけるみたい!」
まやちゃんは弟と別れるかもしれないのがさびしくて、なによりもじぶんはどうなってしまうのか、考えるだけで胸がぎゅうっとしめつけられて、ますますむっつりした顔になってしまうのでした。
起きてねむってごはんを食べて、またねむって起きてごはんを食べて。
それからどのくらい太陽と月がこうたいしたことでしょう。
うとうとしていたまやちゃんは、だれかにじっと見つめられているのに気づいてまぶたをひらきました。
ガラスごしに見つめていたのは、ほっそりとしたおばあさん。
「わたし、こっちがいいなぁ」
おばあさんはまやちゃんを指さすと、もうひとりの女の人をふりかえりながらそう言ったのです。
「えっ?その犬?ええっ?そうなの?」
まやちゃんの上のほうのおうちにいた、白と黒のとびきりかわいい女の子をだっこしていた女の人はこまった顔をしながらも、おじさんと何やら相談をはじめました。
そしておじさんはひさしぶりにまやちゃんを抱き上げて、ガラスのおうちの外に出したのです。
そっとおろされたじめんは固くてつめたいし、人間はガラスのおうちの中からながめていたよりもずっと大きいものだから、まやちゃんはこわくてこわくて足ががくがくふるえました。
おじさんが手をそえて立たせようとした時、思わず尻もちをついてしまったほどです。
そんなおくびょうなまやちゃんを、女の人はがっかりしたような顔でしばらくながめていましたが、またおじさんと何やら相談をはじめて……。
まやちゃんは小さなかごの中に入れられました。
でんしゃがはっしゃしまあす。
がたん。がたん。ぷしゅー。
がやがや、がやがや。
かいだことのないにおい、聞いたことのない音、見たことのないけしき。
かごの外に恐ろしいものがおしよせているようで、まやちゃんの頭はぐるぐると回って、食べたばかりのごはんをはいてしまいました。
それからどのくらい時間がたったでしょうか。
へんてこな音もいやなにおいも消えて、あたりは急に静かになりました。
やがてかごの入り口が静かに開いて、まやちゃんをのぞきこんでいたのは、あれ?さっきのおばあさん!
「わたし、こっちがいいなあ」
言葉の意味はよく分からなかったけれど、そう話していたおばあさんの声をふと思い出して、石のように固くなったまやちゃんの体から、すうっと力がぬけてゆきました。
「出てこないね」「まだこわいんだね」
おそるおそるかごから顔をのぞかせたまやちゃんを見て、みんなにこにこしています。
でも、にこにこするばかりで、だれもまやちゃんをらんぼうにだっこしたり、こまった顔でながめてどこかへ行ってしまったりしないのです。
ただ笑っているだけの人たちを見て、まやちゃんもだんだん安心してきました。
そしてゆうきをだしてぴょこん!とかごから飛び出しました。
「あら!かわいい!」みんなとてもうれしそうです。
「ちっちゃいねえ」「これ、やってみようか」
そう言いながら女の人が鼻先に差し出したふしぎなものをおっかなびっくり口にふくんでみると……。
ああ!びっくりした!なんておいしいんでしょう!
そうするうちに奥の方からおじいさんも出てきて、「お、その犬か」とマヤちゃんの頭をそっとなでました。
楽しそうに笑う人たちの真ん中で目を白黒させるまやちゃん。頭がぐるぐる回ってたおれてしまいそうです。
でも、ふしぎにこわくも心配でもありません。
その代わりにまやちゃんの小さな体を包んでいるのは、どこかなつかしいぬくもりでした。
「名前は決めてるの?」「マヤだよ」
「そうか、マヤ、よろしくね」
かわるがわる頭をなでられながら、まやちゃんはなんだかわくわくしてくるのでした。
これからどんなことがあるんだろう。なんだか楽しいきもちだな。
さて、これがみき・まやちゃんの長い長いたびのはじまりです。はじめのはじまりのおはなしなのです。
<おしまい>