2020年6月7日(水)

インギーの老犬
毛が禿げて黒くなり、モグラみたいになった鼻づら。これもずいぶん長く生きたしるしなんだね。

隣の部屋でいつものようにぐるぐる回っていたマヤが、突然「ぎゃうっ」と鳴いた。すっとんで行くと、吐くような姿勢をしているものの床には吐瀉物が見当たらない。
あれっ?何これ?と思った瞬間に、崩れ落ちるように伏せてすうっと目を閉じた。

ああ!ついにこの日が来てしまったのか?
ぐんにゃりした犬を抱きかかえ、気持ちのいい風が通り抜ける場所にそっと寝かせた。そして頭を撫でながら頰を寄せて、思いつく限りの優しい言葉を囁きかけた。
マヤ、マヤ、お前はいい子だね。すごい犬、立派な犬だ。ねえちゃんはここにいるからね。安心するんだよ。大好きな大好きなマヤちゃん!

心なしか呼吸が弱い。体に力が入っていない。生命力が薄い感じ。さっきモリモリご飯を食べたばかりなのに、こんなことってあるの?

でも、犬にも突然死があるのかと獣医さんに尋ねた時には「ありますね」と即答だったし、Twitter上でも、数時間前には普通にご飯を食べていた老犬が突然……という嘆きを目にしたことがある。マヤに語りかける口調は平静を装いつつも、内心では激しく動揺していた。

これ以上容態が急変したら救急に連れて行くべきか?いや、もう十分生きたんから、病院で死なせずにこのまま見取るべきだろうか。
ああ、葬儀会社を決めていなかった。獣医さんが紹介してくれるかな。有給は1日取れば足りるだろうか。
ヘボピーを起こした方がいいかな。でも妹を呼ぼうと目を離した瞬間に逝ってしまうかもしれない。このまま私とマヤ、二人きりで最期を迎えようか。

10分後。マヤはよろめきながら立ち上がり、生まれたての子犬のような足取りで歩き始めた。またしてもぐるぐる活動を再開するつもりらしい。
よかった……。少なくともお別れは今夜ではなさそうだ。マヤの犬生はまた1日延びてくれた。
一気にほぐれた緊張と入れ替わりに襲ってくる脱力感。大きなストレスで自分の気力がまたしても削られた気がする。

イングリッシュコッカーの老犬
ボロボロの畳の上のタラコ唇の老犬。畳はマヤを見送ってから替えようねとヘボピーと話すうちに、マヤにとっての17回目の夏。有難いことだ。

17才と4ヶ月にもなる犬を飼っていると、こんなことを2、3日に一度は繰り返している。足は萎えたし心音もずいぶん弱くなったマヤは、人間の心配をよそにヨボヨボになりながらも20才まで頑張ってくれるのかもしれない。

それでも確実に訪れるおしまいの日は、日を追って現実的なイメージに姿を変えつつある。
それに、このところ急速に生命力が低下したマヤを見ていると、ヘボピーと私の心中には「この夏は越せないかもしれない」という思いがうっすらと漂い始めている。

イングリッシュコッカースパニエルの老犬
一年ほど前。この頃も十分老犬だったけど、まだ「もんも」(お尻のふわっとした毛)の名残があるね。来年の夏には今の写真を見て「この頃はまだ若かった」と言いたいよね。
イングリッシュコッカーの老犬
これも一年ほど前?ヘボピーねえちゃんのお布団を毛だらけにしながら物思いにふける茶色の生命体。

体内のどこかで起きている炎症に由来すると思われる貧血の症状、突然腫れ上がってタラコになった唇。その翌週には顔の半分が腫れてスヌーピーの正面顔のようになり、歯槽膿漏で膿が溜まっているらしいと診断された。

たったの1ヶ月でこんな問題が続々と出現して、犬も後期高齢者になると免疫力が一気に衰えることを痛感する。何か異常が出るたびに、マヤの命が削られているようで怖くなる。
また、実際問題として老境にさしかかり体力が衰えつつある自分にとって、老犬のケアは想像以上に負担が大きい。

毎週1万〜2万円の病院代による経済的負担。そして起きている間は延々と徘徊しながら好き放題に排泄する認知症の老犬の世話と掃除。ここ数ヶ月というもの、ずっとマヤのお尻を追いかけ回している。

それでもマヤを見送るまでは全精力を振り絞り、出来ることは全てやるつもりだ。私はもう2度と家族のケアで後悔したくないしするつもりはない。
父で、母で、妹でし尽くして、それでも今なおし足りない後悔。マヤはそれを少しでも晴らすチャンスを与えてくれた。

そう思うたびに友人の言葉が蘇る。
ミキさんはみんなが死んじゃって悲しいでしょ?マヤちゃんはその分自分が頑張ろうとしてるんだよ。

己の悲しみを癒すために犬に付き合ってもらうのも申し訳ない気がしないでもないが、ヒトと喜怒哀楽を分かち合うことは遥か昔からイヌの仕事でもある。
主人たる私はマヤ、お前が安らかな最後を迎えられるよう全ての力を尽くして守ってやるから、この勝手な人間にもう少しの間だけ付き合っておくれ。

知らない間に私の枕を勝手に使っていたマヤちゃん。およだが臭いから困るんだよね。
どこか果てしなく遠いところを見ているような澄んだ表情をしていた。